環境問題について [講孟余話]

講孟余話 第2巻 梁恵王 下 2章

この章も、民衆とともに楽しむ、ということを例をあげて論じています。
斉の国では、王の狩場が40里四方で、
昔の周の王の狩場は70里四方で、
それでも、今の斉では民衆から「広すぎる」といわれ、
周では「もっと広くしてほしい」といわれたのは、なぜか、という王の問いです。
それに対して孟子は、
「それは当然で、周では狩場では民衆も、草を刈り、木を倒し、
 雉やウサギを取ってよかったのに、
 斉の国では、40里四方に入ることも禁じ、
 よしんば入って雉やシカを取ろうものなら、死罪とする、
 というのでは、これは、国の中に40里四方の落とし穴を作って、
 人民を殺すようなものです」
といっています。
非常にわかりやすい表現で、解説の余地もありません。
特に、組織論において考えてみると、
このようなことをやっているケースが多いのではないでしょうか?
心したいところです。

しかしながら、このテーマは、
現代において、リアルな問題を抱えているように思います。
それは、「環境の保護」という名の下に、
まさに、このようなことが実際に世界各地で行われており、
今は、それが当然、という世の中になっております。
どちらかといえば、国はそのようにして環境を保護するのが当たり前、という時代です。

ここにおいて、ひとつ考えたいことがあります。
そのような、環境保護政策は、妥当なのだろうか?ということです。
たとえば、自然保護区にして、人の出入りを禁じる、
という政策が、本当に環境保護につながるのだろうか、ということです。

環境の保護、というテーマは、
要は自然を大事にし、生き物を大事にし、節度ある環境との付き合いをしよう、
ということではないかと思います。
我々も自然の中で生きているわけですから、
自然と全く関わらないでは生きていけません。
しかし、このような保護政策は、
「こっちは保護すべき環境」「こっちはどうなってもいい」的な発想に聞こえます。

そうではないはずです。
環境を保護する、自然とともに生きよう、というのは、
自然とともにでなければわれわれ人間は生きていけない、という前提条件から来るものであり、
元来、われわれ人類は、自然を大事にする、
目の前で一本の花があれば、それを訳もなく土の中から抜きあげ、
捨て去るようなことは、誰もが心に痛い思いを抱くように、
目の前でいわれもなく犬や猫が殺されれば心を痛めるように、
自然を大事にする心は本来われわれが根源的に持っている心です。
政策でその保護をするのは、
当然現在進んでいる環境破壊を食い止めるのに重要なことですが、
それ以上に重要なことは、
本来われわれが環境や自然に対して持っている、
いたわりやいつくしみの心を、
今一度喚起することではないか、と思います。

そういう背景から、
現在さまざまなプロジェクトが世界で推進されています。

その中で、ぜひ、ひとつ、取り組んでいったほうがよいのではないか、
あるいは浸透させるべきでないか、という考えがあります。
それが、松陰のさっ記に記載されている、
「聖人の心は、親族を親しみ、民には仁を施し、
 禽獣草木など、あらゆるものに注ぐものである。
 これは、まず近いものに対して自覚する仁心を、
 次第に周辺に推し及ぼす、ということであって、
 親族より民衆へ、民衆より禽獣草木へという順序はかりそめにも乱してはならない」
という考え方は、
環境保護、ということを考えた場合に、大きなテーマではなかろうか、と思います。

自分の家族を大事にしない人が、
地球に大事な環境を守ると声高に叫んで説得力があるか?

極論すれば、犬や馬や草木を愛して、賢才を無視し、
自国の民を虐待して外国人を優遇するようなもの、
とは松陰の言葉ですが、
何にいたわりを向けるべきか、
その順序、というものをしっかりと、今一度明らかにしていく運動、
というのも重要な活動ではないか、と思います。


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学問のあり方 [講孟余話]

講孟余話 第2巻 梁恵王 下 1章

この章は、梁恵王上の第2章と同じ内容を、
改めて斉の王にも伝えています。
このことからも、孟子が、いかに、
「民衆とともに楽しむ」
という姿勢を重視していたか、がよくわかります。

改めて、人の上に立つ者は、
自ら何を楽しみとするか、を大事にするのではなく、
「部下や組織のメンバーと同じ楽しみを共有するか」
に心を砕いていきたいところです。

この章の吉田松陰のさっ記の解説では、
この内容にヒントを得て、彼は、学問の在り方、について論じています。
つまり、学問も、
「世に正しいといわれている正当な学問を一人楽しむ」ではいけない、
逆に、
「世に曲学といわれる学問でも、その志が、民衆とともに楽しむ」
というスタンスであれば、決して間違いではない、といっています。
正学を知る機会がなくとも、
世を正そう、世の中の役に立とうという志で学ぶならば、
それは一概に誤っているとはできず、
逆に、正学であっても、
それが、自己の立身出世、利益のために学ぶならば、
曲学以上にいやしい、と。

松陰は、学問の目的は、
「人の人たる道を究め、世の人々を救済しようとすること」
であると論じています。

このように見てきたときに、
現在の学校教育から社会に出るまでの教育、というのは、
残念ながら、
「われわれがどう生き、どうあるべきか」
ということではなく、
受験勉強に秀でて、良い大学に行き、良い会社といわれるところに就職する、
あるいは官僚として立身出世を図る、
「ため」に行われている、と極論されても仕方ない、状況であろうと思います。

歴史において、
学問がこのような形となって、
その学問の良しあしを人物の鑑定基準としてきて、
衰退しなかった国はありません。
一番最たるものが、
中国の科挙の制度でしょう。
科挙が中世以降、中国の官僚制度が硬直化する弊害の最大要素となったことは、
歴史上間違いのないことであると思います。

私は、
民間の企業も然りですが、
まず、国の公務員、あるいは地方の公務員の採用の基準や、
採用の在り方を見直していくことが、
この国の政治の在り方を変える、
大きな一歩ではないか、と改めて感じます。

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できない、のではなく、しない [講孟余話]

講孟余話 第1巻 梁恵王 上 7章(3)

この章の最後のテーマとして、
この章の松陰のさっ記での解説を見てみたいと思います。
孟子の一番の力説部分であり、
この章の松陰のさっ記での解説も凄味があります。

まず、この章を受け、松陰は実際自分ならば今の時世においてどうする、
ということを幾つか述べています。

「民の生活の道を立て、不幸な孤独者を優先にし、
 貧しいものを救い病む者に目をかけ、幼いものを育てる、という政治を起こし、
 学校教育を重視するなどの問題に最も関心を持っている」

「今、一国の政治を担っている重臣が、自国のみでなく天下全体を兼ねて良くしようとする
 至誠の志を立て、天下中を抱きかかえる広い度量を持って、
 まず胸襟を開いて天下の人物をわが萩の城下町に召集し、
 技芸があるもの、才能があるもの、学識があるものを全員包容するならば、
 3年か5年を出ぬうちに萩城下の人材は天下に比べるものがないようになろう」

などというところです。

そして、重要なことは、孟子本文から抜粋し、
「これらは、できぬのでなく、なさぬのである」
としているところです。

孟子でも、仁政は、できないのではなく、なさないのです、
ということを、本文で比喩を多分に使い諭しています。
つまり、仁政の根本は家族をいたわる気持ちです。
泰山をわきに抱えて渤海を飛び越える、ことは、本当にできないことですが、
目上の人に敬意をもって頭を下げる、
ことは、できないのではなく、しない、のである、としています。

それを、しない、なさない、のは、
本当に仁政をしくべし、と思っていないからだ、ということで、
孟子は仁政の効果を再度述べています。


このことは、常にわれわれは、
多くのことにおいて自問しなければならないことです。
できないこと、と、本当はしたいと思っていないからやっていないこと、
が、多くの場合我々は同じにとらえています。
「できないんだよ」と。
しかし、本当にそうなのか?
必要だとは言いながら、しなければならない、といいながら、
できない、といっているとき、
それは、本当は、自分は必要だと思っていない、という時が多いのではないか、と思います。
これは、よくよく心しておかないと、
陥りやすいところではないでしょうか。
だからこそ、孟子は、さまざまな比喩や論説をもって、
王に、仁政こそが王の望み、各国の覇となる、に最善の道であることを改めて力説しています。


さて、この章の最後のさっ記には、松陰の強烈な思いが記載されています。
「恒産なくして恒心なし。ただ士のみよくするを為す」
という言葉を引き合いに、
自分は囚人であり、まさに恒産なし、の状態であるが、
我々は武士であり、士であるから、
不動の信念を持ち続ける、ということをし続けねばならない、としています。

「汝は汝たり、我は我たり、他人はなんとでも言え。 
 私は願わくは諸君と志を励まし、武士たるの道を極め、
 不動の信念を練り、もって我々の武道・武義をして、
 武士たるの名にそむくことなからしめようと思う。(中略)
 もしなし得ぬというものがあるならば、
 それはまた、なさないのであり、できないのではない」

と締めくくっています。

この言葉を獄中で聞いた人たちの、
心に響くところがどのようであったか、
まさに魂の炎、という感じです。


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恒産なくして恒心なし [講孟余話]

(少し話題が古いですがご容赦ください)

講孟余話 第1巻 梁恵王 上 7章(2)

この章で2つめに取り上げたいテーマは、
仁政を広げる具体的な考え方として挙げられている、
「恒産なくして恒心なし」
という言葉です。

孟子本文では
「恒産がなくとも、いつもきちんと恒心を失わずにおられるのは、
 ただ限られたごく少数の学問や教養のある人だけで、
 一般庶民は恒産がなければ、つれて恒心もないものです。
 もしひとたび恒心がなくなると、
 わがまま、ひがみ、よこしま、ぜいたくなど人はしたい放題、
 どんな悪いことでもやってのけます。
 それを知っておきながら、止める工夫もしないで、
 いざ罪を犯すとなるとすぐさまびしばしと処罰するのでは、
 これこそ人民を無視するというものです」
といっております。

仁政において何が具体的に一番重要か、と問われて、
真っ先に答えたのが、
「人々が定職を持てるようにせよ」
ということです。
非常に明快にそのあとの解説もされており、
言わんとすることはよく飲み込めます。

ここにおいて、今のまさに日本の政治の状況を見た場合、
経済の状況からみて、なさねばならぬことはたくさんありますが、
第一に取り組むことは、
「雇用対策」
であることが明確になります。
派遣切り、ということが話題を呼んでいますが、
派遣だけでなく、多くの企業で正社員が早期退職や整理解雇などにより、
その職を失っています。製造業関連でまず進みましたが、
決算がちゃんと出そろえば、
金融、不動産、建設などがさらに、
赤字決算とともに対策として人員整理を打ち出すでしょう。
さらに、翌年は消費に影を及ぼすと、
小売りなどで働く人たちに、次なる解雇の波がやってくることと思われます。
(常に、不況の波は、川上から川下へと時間差を持ってやってきますので)

では、今、一般の人間で、
日本でとられている明確な雇用対策が何か、と言われて、
理解、把握している人は、ほとんどいないでしょう。
派遣村、ぐらいでしょうか。あれは対策ではありません。
単なる「対応」でしかありません。
定額給付金というような、ばら撒き施策が生み出すのは、
一時的な消費の喚起でしかなく、
根本的な政治・経済の施策ではない、ということは、
この孟子の言葉からも容易に想像がつきます。

雇用対策が進まず、
失業者が増えることとなれば、
その人の心は落ち着きを得ることができず、
暗にはしれば、うつ病などの患者を増やし、
動にはしれば、社会不安を引き起こすようなことになりかねません。

今一度、今の為政者、そして企業の経営者には、
目先の業容確保も大事ですが、
雇用確保、というテーマに対して、
社会的責任を考えて取り組んでほしいところです。
政治においては、お金を使うならば、
そのようなテーマに真っ先にお金を費やしてほしいですし、
マスコミ関連は、
そのようなテーマへの関心喚起を促すような報道をしっかりとしてほしいです。

ちなみに、今の政府も雇用対策は各種おしすすめています。
しかし、それは、「いっぱいある中でのひとつ」であって、
決して、最重要テーマ、とは位置付けられていません。

一つ見ますと、3兆円を使って、IT分野での雇用を40-50万に創出する、
といっています。
いいことだと思います。
けれど、3兆円というのは、定額給付金の総額に近いです。
これが6兆円になれば、100万近い雇用が創出できる可能性があるわけです。
もっと、重要視し、大々的に進めることが重要だと思っています。


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東洋の政治思想の根本 [講孟余話]

講孟余話 第1巻 梁恵王 上 7章(1)

この章は孟子全体の中で最も長い章です。
そして、孟子が斉という大国の王に対して、
自らの政治の在り方、考え方を一気に伝えていく、
力感あふれる章です。

この章は3パートに分けて考えてみたいと思います。

まず、一番初めに考えたいのは、
この章において明らかになる、
「仁政の広め方」です。
この考え方にこそ、東洋の政治思想、というものが如実に表れており、
まさに、この先の世界経済を考えるにあたり、
大きなヒントではないか、と思っています。

孟子本文では、
斉の王が、祭りのために殺されようとしている牛を見て、
可哀そうだから、牛ではなく(当時としては生物的価値の低かった)羊にしなさい、
と憐れみをかけてことから始まります。
そして、牛のような獣にまで憐れみをかけるのに、
どうして人間、国民に憐れみをかけることをしないのか、
王に憐れみがないのではなく、
憐みの気持ちを表したり、伝えたりしていないのだ、と言っています。
そして、その憐みの気持ちを形にすることが、仁政である、としています。

その仁政の広め方の根本たる考え方として、
「自分の父母を尊敬するのと同じ心で他人の父母を尊敬し、
 自分の子弟をかわいがるのと同じ心で他人の子弟をかわいがる」
としています。
その引き合いとして、詩経の
「まず夫人を導き正しくし、ひいては兄弟を、さらには民草を、そして国家を安らかに」
という言葉を出しています。

つまり、国を治める根本は、
家族をいつくしむ心、
父母、祖父母を大事に思う、人間ならではの心、
自分の子供、孫を可愛く思う、人間が皆持っている心、
この心を、隣の家へ、
町中の家へ、郡中の家へ、そして国中の家へ広めていくことである、としています。

国の為政者が、家族をいたわるように、そのいたわりを押し広めていくこと、
これは、東洋ならではの政治思想ではないかと思います。

家族を大事に思う心、というのは、
人間であれば誰もが持っていることであり、(本来は)
その思いを政治の根本とする、
とても理にかなった根本思想ではないか、と思います。

現代の政治思想は、その根っこは個人の基本的人権の尊重、
国民一人ひとりの人権を尊重し、
生きたいように生きる権利を確保し、
そのための制度を整え、そのために生まれる齟齬を法律等で抑制し、
社会生活としての規範を示していく、というものであろうかと思います。
根本にあるのは、「自由」と言っていいかと思います。
人間本来が持っている、自由を尊重することが、
現代の基本的な考え方ではないでしょうか。

しかし、自由の確保に基づいた、
自由な経済活動、というのは、結果として、営利の追求を最優先する市場経済を形成し、
結果として、自由主義経済は今、大きな転換点を迎えていると思います。
昨年のダボス会議でも、各国の要人が、
今は世界経済のシステムの転換点である、
その経済システムの転換がなければ、
長期の経済安定にはつながらないのでは、と提言しております。

そのような時代であるからこそ、
次なる経済、グローバルの仕組みを考える際に、
東洋の「仁政」という思想は、再度クローズアップされてしかるべきではないか、と思います。
つまり、
「家族、家庭へのいつくしみやいたわり」
をベースに政治システム、経済システムを再検討する、ということです。

抽象的なところにまでしかまだ考えが及んでいず、
すっきりとしませんが、
少し例をあげるならば、
「自分の自由と利益を最優先とするのではなく」
「家族の構成員の幸せを大事にする」
ということでしょうか。
そして、家族が企業になり、公共団体になり、国になり、世界になる。
他人への思いやり、いたわり、を家族への思いをベースに広げていく、
そうすることで、個の利の追求、から、グループの理の追求、
そこにおいて、滅私、という思想が自然と出てくるのではないか、と思います。

個の利の最大化の追求、そのような経済システムはすでに破たんをしている、と思っています。
それに代わる、新しい思想が求められている時代において、
東洋の古代からの政治思想、というのは大いなるヒントがあると信じています。


そして、残念なことは、
今の日本において、このような家族間のいたわりやいつくしみ、
というものが薄らいできていることです。
教育、というテーマにおいて考えると、
この点は深い議論と素早い対応が必要ではないか、と思います。



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言葉の修め方 [講孟余話]

講孟余話 第1巻 梁恵王 上 6章

梁の王が代わり、後を継いだ王との会話。
孟子は明らかにこの王に失望をしています。
それは、
「天下はいったいどういうことになるのだろう?」
と至極客観的で平易な質問を受けたからです。
松陰のさっ記においても、
梁の国は今まさに四方を大国に接し危急の時であるのに、
傍観者のような対話に終始する王を、
「自分の国の運命を世間話程度に考えている馬鹿者」
と断罪しています。
そして、加えて、
有志の人物の言葉というのは、自然傑出したところがあり、
自ら「ことばを修め誠を立てる」ということを、
自身の切実な問題とすべき、としています。

この後の章では、梁の国から斉の国に孟子は移っていますので、
この章は、このような王では語り合うすべもない、ということを提示したような章です。


この章は、確かに新しい王の愚昧さと、
松陰のいうように、それから類推される、
発する言葉の表わす人格、という解説で十分と思いますが、
少し現在に置き換えてみると、違った見方もできようと思います。

たとえば、現在の経済の問題を考えたとき、
「いったい日本の経済はどうなるんだろう?」
というのはだれもが考え、口にすることです。
それが、いったい何が悪い?と感じます。
我々が世間話でこのようなことを思い思い話しても、
それが、その人の人格を表すことにはならないでしょう。

ただ、もしも、私が経営コンサルタントで、
指導に行った先の社長が、
自分の会社のこともそっちのけに、
「世界経済はどうなりますかねえ。」
「日本の政治はどうなるんだろう。」
などといってきたら、
それは、「あほかこの社長」と思うでしょう、きっと。
今は、そんな世間話をする場ではないんだよ、と。
そして、おそらく、お金をもらってコンサルしても、
これでは成果が出なくて、いずれ成果が出ないことの責任を転嫁されるな、と思います。。。きっと。

孟子の王に対する立ち位置はこういう立場だったのだと思います。
そう考えると、ようやくこの章が少しすっきりします。

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屈伸の利 [講孟余話]

講孟余話 第1巻 梁恵王 上 5章

この章の松陰のさっ記は、名解説です。
孟子本文では、
梁の王の国が、もともとは大きかったのが、
今は列強に侵され小国になってしまい、
さらに、大国から侵略されかかっている状況に対して、
孟子は、ただただ仁政を行いなさい、といい、
その仁政の中身を説明しています。
その中身、というのは別に奇をてらったものでなく、
刑罰を軽くし、税金を少なくし、農業を振興し、
教育を厚くし、家庭では父母によく使えさせ、社会では目上に敬意をもってつかえる、
といったことです。

今まさに他国から攻められん、としている小国の王に、
このことを「疑うなかれ」といって結んでいます。

梁の王はもともと愚昧なほうでしたので、
とてもそれを受け入れることはできなかったでしょう。

仁政が大事なことは百も承知だが、
明日にも攻められ亡国するかもしれない、
という時に、ただただ仁政を引け、といわれても、
たいがいのTOPは受け入れられないでしょう。
企業経営でいえば、
すぐにも資金繰りが枯渇しそうな経営者に、
社員を咎めるな、査定・昇給はしっかり行え、本業・本分・理念を大事にしろ、
社員教育を徹底しろ、組織風土の強化に努めよ、
というような内容です。
大体の場合が、
孟子でいえば、「人民をこき使い」というように、
社員のせいにし、昇給・査定はなどはなくなり、目先の利益にこだわり、
社員教育は打ち捨てられ、組織は退廃していく、
ということになってしまいます。

しかし、わかっていてもできない、わかっていも、
今目の前にある危機に対しての即効薬以外考えられなくなってしまう、
のが多くの人ではないでしょうか。


松陰のさっ記を読むと、それは、要は、
「わかっていない」ということになります。
つまり、そのような時にこそ、仁政が一番の薬なのだ、ということの、
「事実」と「理論」を理解していないから、
「わかってはいるけど。。それは理想論。今は急場」というような話になります。

このことを、松陰は明快にさっ記において解説しています。

仁政を行うことの中身を上記孟子の内容に沿い解説した後、
有事の際にはこう号令をかける、といっています。
「私は国民を愛育しようと思っていた。
 しかし、隣国から迫られ、かえって国民を苦悩させることになってしまった。
 哀痛の情に堪えない。
 国民は心のままに降伏して生命を全うせよ。
 私はこの国の君主である。
 一死をもって国家と運命を共にすることあるのみ。
 寸歩も退避しようと思わぬ」
と。幕末に生きた松陰の危機感が伝わってきます。
そのあとに、実際の事例として、燕の国、斉の国での実例を持ち出し、
いかに一時の力が強くとも、
最後は、祖先以来久しくその国を仁政をもって統治し、
民心を得ること深かった人の手に国が帰ることを説明しています。

そのあとの、兵法上からの説明が興味深いです。
松陰は、「屈伸の利」という言葉でこのことを説明しています。
一時味方の勢いを屈しておいて、機を待つことと、
機を得るや一気に力を持って目的を達成することは、
まさに、内側に絶対の結束がなければできず、
それは、仁政による力以外ありえない、と結論付けています。
装備を拡大し、国境には城壁を築き備えを厚くする、
これは「伸」であり、より強い力を生み出すのは「屈」の状態に力をため込むことである、
といっています。

そして最後に、このようなことを実現するには、
「大決断」「大堅忍」が必要であるとしています。
絶対にやりきる、力のない人間でなければ、
初めにちょこっとこの策を行い、途中でやめてしまう時は、
その害は表現しきれないほど大きい、としています。
故に、孟子は最後に「疑うなかれ」と結んでいる、と。


このことは、経済においても、
幕末に、山田方谷がまさに実践しています。
彼の理財論、もまさにこの考えを根本においていると思われます。


我々現在の資本主義社会に生きる人間にとり、
このことは、より一層困難な時代であるといわざるを得ないでしょう。
特に、経済活動においては、
株主が営利主義である限り、
株式会社はこのような政策はよほどの理解がなければ断行できません。
しかしながら、
古来、それも大古来から、
このことが理であることを思い出す時期に来ているように思います。


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民の父母 [講孟余話]

講孟余話 第1巻 梁恵王 上 4章

この章は松陰のさっ記では、
「民の父母」という概念を重要視しています。
松陰は本文の
「上に立つ者は、民をあたかも幼児を愛想すように保護教導すべきである」
をもって、「大学」の「民の父母」という概念を引き合わせています。
父母、と呼ぶには、子に対しての「養育」と「教訓」が必須であり、
どちらかだけでもいけない。
当然、民の父母たる政治家、
ならびに、今の世では経営者や指導者層は、
当然、国民、社員、部下に対して、
「民の父母」であるべきであろう、と問いかけています。
そこで、大事になるのが、
「養育」と「教訓」の概念ではないかと思います。
養育は現実的に養うことであり、
教訓は、人としての道を教えていくこと、と定義できるか、と思います。

この点は繰り返しになりますが、
現在の日本の政治において、
大いに考えるべきテーマであろうと思います。
資本主義社会においては、国民の養育、は政治家の使命で、
経済問題というのは片方の最優先事項です。
しかし、政治家のもう一つの大きな使命は、
国民の教訓、であり、これこそ、
経済が短期的成果中心の今(それはすぐにも改めるべきことですが)、
長久の企図には、
国民に教訓できるような人物であるかどうか、
というのは大変重要なテーマであると思います。

これに関して、政治家そのものの意識は低くない、と思っています。
しかし、マスコミのレベルはあまりにも低いと言わざるを得ないと思います。
そして、国民や一般大衆の意見形成が、
ほとんどマスコミによっている今、
政治家が、人として生きる道、について、
どのような考えを持ち、
それが、どのような意見形成に至っているか、
マスコミは、しっかりと理解し、
第三者的な報道を成すべきと思います。
あまりにも一方的で、幼稚な内容が多いように思います。
特に、新聞、テレビは致命的ではないか、と思います。
このような業界の人々は自分たちの意識、役割を十二分に考えてほしいと思います。


孟子の本文の説話では、
「刃物で人を切り殺すのも、悪政で人を死に追いやるのも同じ犯罪だ」
と断罪しています。
これは、確かに言葉通りで、
演説としてはとても説得力があります。
ぐうの音も出ません。
しかし、現実的には、
刃物で人を切り殺した人と、
企業経営の失敗で人を自殺に追いやってしまった人と、
政治家の失政で経済を混乱させ、結果死者を出してしまうのと、
同じではない、そう思うというより、
同じではありません。
なぜならば、
犯罪については法治国家である以上、
法によって裁かれるものです。
このようなトークは、ある種の説得のための詭弁、といえなくもありません。
この章は終始このような対比の説話に終始し、
王の政治に対する姿勢を改めようとしていますが、
トークとしては非常に魅力的ですが、
実効的な内容ではない部分も多いと思います。


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生産力と道徳教育 [講孟余話]

講孟余話 第1巻 梁恵王 上 3章

この章では、
王が自分は十分に民のことを考えた善政をしているのに、
どうして国民が増えていかない(国力が上がらない)のだろう、と問いかけています。

それに対して、孟子は
「戦争で敵を前にすると100歩逃げる人も、50歩逃げる人も同じで、
 どちらも役に立たない。」
と答えています。
つまり、いたずらに人数を増やすのでなく、
本当にこの国を愛する人たち、
この国で住みたい、この国を守りたい、
そういう人を増やすのでなければ、
人ばかり増えても何の役にも立たない、と述べています。

そして、そのためには、
・国内の生産の仕方をあらため生産力をあげて民力を高める
・教育をもって、親や目上の人への道徳を徹底させる
ことをすれば、
自然と、隣国からうらやまれる国となり、
多くの人口が流入してくるでしょう、と述べています。

そういう順序で富国強兵、は努めていくべきだ、という内容です。

明治維新前後までは、
国の力=国民の数、という概念がありましたので、
(松陰のさっ記にもそのように記載されています)
この考え方はまったくその通りで、
国内の生産力をあげる、ということについては、
経済システムや土地や風土によって違いがあることでしょう。
重要なのは、
生産力の向上と、道徳教育、とが「セット」である必要がある、ということだと思います。
これが、セットでなく、生産力の向上、技術の進化、効率の上昇、などだけが進んでは、
王道政治、とはまったくいえない、ということだと思います。

翻って今の時代を見た場合、
生産力や技術などの進化は人類史上最速の進化を遂げていますが、
では、そのような時代において、
人としてどう生きていくべきなのか、
社会においてどのような徳目を守り生きていくべきなのか、
ということについては、おざなりになっている、といわざるをえない、と思います。
このことが、現代の経済に早晩大変大きな影を落とす、
すでに落とし始めているのではないでしょうか。

なお、松陰はさっ記において、
「太平が長く続くと、戸数人口は自然に増加するものの、
 生活に必要な米穀その他の物品はかえって大いに生産が減り、
 国力もそれにつれて窮迫し、はなはだしい場合は、
 ついに国内の人口が多すぎることを心配するあまり、
 これを養うということすらできないということになる」
と記していますが、
江戸期の太平期間を通じて、
日本の生産技術、効率は欧米並みに進化を遂げています。
ですので、上記の言葉は単純には受け止められません。
しいて言えば、
太平が続くことで、人心が退廃し、趣味や趣向に走る人が多くなり、
故に質素倹約などの徳目が衰退し、
華美や余興が台頭することで、
自分の仕事に精を尽くす、ということがなくなり、
結果として個別の生産能力が落ちる、ということはいえるかもしれません。
日本でいえば、平安末期、などはまさにそういう時代であったように思います。

この章の最後にとても興味深い言葉あります。意訳しますと、

「民衆が飢饉に苦しみ、道端には餓死者が転がる、そのような時に、
 ”私の政治のせいではない、凶作や天候不順のせいなんだよ”
 とすましているのは、
 人を刺しておきながら、
 ”私が殺したんじゃない。この刃物のせいだよ”
 といっているようなものです」

今の不景気を言い訳にIRで現状を語る経営者層につきつけたい言葉です。

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ともに楽しむ [講孟余話]

講孟余話 第1巻 梁恵王 上 2章

この章においての、「楽しむ」ということについての解説は、
まさに、今の世において、組織を運営する、という立場の方にはぜひ知ってほしいところです。

王が孟子に、庭で遊ぶ小鹿や大鹿、魚などを見て、
「賢者もこれを見て楽しむのだろうか」
と孟子に聞くところから始まる章です。

孟子はそれに対して、周の文王(古代の名君)を引き合いに出し、
以下のような解説をします。松陰のさっ記から引用。

「周の文王は、その御苑のうちの、台地や鳥獣を楽しんだのではなく、
 民衆がそれをつくることを楽しむのを見て、楽しんだのである。
 民衆の楽しみもまた、御苑の台地や鳥獣を楽しんだのではなく、
 文王の楽しんでおられるのを楽しんだのである。
 かくして、王は民衆の、民衆は王の楽しみを互いに楽しんだのである」

これを、松陰は「ともに楽しむ」と述べています。

これに対して、同じく古代の暴君の一人である、夏の桀王を引き合いにして、その民衆の声として、

「この太陽はいったいいつ滅びるのだろう。
 その時が来るならば、自分も一緒に死んだとしてもかまわない、
 といって呪ったとあります」

この夏の桀王の楽しみ方は、
台地や鳥獣そのもの、を楽しんだのであり、
民衆と楽しむのでなく、一人楽しんだ、ということになります。


現代は個性や個を尊重する時代です。
そして、個の自由が尊重される時代です。
どうしても、その楽しみ方、も、
「一人楽しむ」ことが多くなっているように思います。
最たるものはTVゲームやインターネットでしょうか。
もちろん、いつの時代も、
お酒を飲むのも、おいしいものを食べるのもあり、
一人楽しむ、というものはたくさんあるのですが、
それだけをむさぼっていては、桀の仲間になってしまう。
特に、個での楽しみ方が増えている今の時代であるからこそ、
仕事や学校などの集団での場を通して、
「ともに楽しむ」という経験を提供することが重要に思います。

一人楽しむことが多くなっている今だからこそ、
組織を運営するに当たっては、独善的な思考にある人がおおいのだ、
ということを前提に考える必要があると思います。
そして、そうであるからこそ、
上司は、部下が成果を上げたり成長をする、その姿を楽しみ、
部下は、上司がそのために苦心し、手助けし、励ましてくれる、そのことを楽しむ。
そうなることにより、
組織としての一体感が強まる、
というよりは、
独楽が強まっているからこそ、
意図して組織を強くし機能させるには、
「ともに楽しむ」という組織運営が不可欠のように思います。


学校教育、そして、家庭・家族において、
このような姿が一番強く求められる、のはいうまでもありません。


また、夏の桀王の姿を見て、
組織の上に立つ人間は、
自分が、いい車に乗り、大きな家を持ち、高い食事をし、いい服を着る、毎晩接待で飲みまわる、などなど、
「だけ」を楽しみとしていないか、是非自問いただきたい。
そのような人間には、組織の長たる資格は一切ないということです。


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