環境問題について [講孟余話]
講孟余話 第2巻 梁恵王 下 2章
この章も、民衆とともに楽しむ、ということを例をあげて論じています。
斉の国では、王の狩場が40里四方で、
昔の周の王の狩場は70里四方で、
それでも、今の斉では民衆から「広すぎる」といわれ、
周では「もっと広くしてほしい」といわれたのは、なぜか、という王の問いです。
それに対して孟子は、
「それは当然で、周では狩場では民衆も、草を刈り、木を倒し、
雉やウサギを取ってよかったのに、
斉の国では、40里四方に入ることも禁じ、
よしんば入って雉やシカを取ろうものなら、死罪とする、
というのでは、これは、国の中に40里四方の落とし穴を作って、
人民を殺すようなものです」
といっています。
非常にわかりやすい表現で、解説の余地もありません。
特に、組織論において考えてみると、
このようなことをやっているケースが多いのではないでしょうか?
心したいところです。
しかしながら、このテーマは、
現代において、リアルな問題を抱えているように思います。
それは、「環境の保護」という名の下に、
まさに、このようなことが実際に世界各地で行われており、
今は、それが当然、という世の中になっております。
どちらかといえば、国はそのようにして環境を保護するのが当たり前、という時代です。
ここにおいて、ひとつ考えたいことがあります。
そのような、環境保護政策は、妥当なのだろうか?ということです。
たとえば、自然保護区にして、人の出入りを禁じる、
という政策が、本当に環境保護につながるのだろうか、ということです。
環境の保護、というテーマは、
要は自然を大事にし、生き物を大事にし、節度ある環境との付き合いをしよう、
ということではないかと思います。
我々も自然の中で生きているわけですから、
自然と全く関わらないでは生きていけません。
しかし、このような保護政策は、
「こっちは保護すべき環境」「こっちはどうなってもいい」的な発想に聞こえます。
そうではないはずです。
環境を保護する、自然とともに生きよう、というのは、
自然とともにでなければわれわれ人間は生きていけない、という前提条件から来るものであり、
元来、われわれ人類は、自然を大事にする、
目の前で一本の花があれば、それを訳もなく土の中から抜きあげ、
捨て去るようなことは、誰もが心に痛い思いを抱くように、
目の前でいわれもなく犬や猫が殺されれば心を痛めるように、
自然を大事にする心は本来われわれが根源的に持っている心です。
政策でその保護をするのは、
当然現在進んでいる環境破壊を食い止めるのに重要なことですが、
それ以上に重要なことは、
本来われわれが環境や自然に対して持っている、
いたわりやいつくしみの心を、
今一度喚起することではないか、と思います。
そういう背景から、
現在さまざまなプロジェクトが世界で推進されています。
その中で、ぜひ、ひとつ、取り組んでいったほうがよいのではないか、
あるいは浸透させるべきでないか、という考えがあります。
それが、松陰のさっ記に記載されている、
「聖人の心は、親族を親しみ、民には仁を施し、
禽獣草木など、あらゆるものに注ぐものである。
これは、まず近いものに対して自覚する仁心を、
次第に周辺に推し及ぼす、ということであって、
親族より民衆へ、民衆より禽獣草木へという順序はかりそめにも乱してはならない」
という考え方は、
環境保護、ということを考えた場合に、大きなテーマではなかろうか、と思います。
自分の家族を大事にしない人が、
地球に大事な環境を守ると声高に叫んで説得力があるか?
極論すれば、犬や馬や草木を愛して、賢才を無視し、
自国の民を虐待して外国人を優遇するようなもの、
とは松陰の言葉ですが、
何にいたわりを向けるべきか、
その順序、というものをしっかりと、今一度明らかにしていく運動、
というのも重要な活動ではないか、と思います。
この章も、民衆とともに楽しむ、ということを例をあげて論じています。
斉の国では、王の狩場が40里四方で、
昔の周の王の狩場は70里四方で、
それでも、今の斉では民衆から「広すぎる」といわれ、
周では「もっと広くしてほしい」といわれたのは、なぜか、という王の問いです。
それに対して孟子は、
「それは当然で、周では狩場では民衆も、草を刈り、木を倒し、
雉やウサギを取ってよかったのに、
斉の国では、40里四方に入ることも禁じ、
よしんば入って雉やシカを取ろうものなら、死罪とする、
というのでは、これは、国の中に40里四方の落とし穴を作って、
人民を殺すようなものです」
といっています。
非常にわかりやすい表現で、解説の余地もありません。
特に、組織論において考えてみると、
このようなことをやっているケースが多いのではないでしょうか?
心したいところです。
しかしながら、このテーマは、
現代において、リアルな問題を抱えているように思います。
それは、「環境の保護」という名の下に、
まさに、このようなことが実際に世界各地で行われており、
今は、それが当然、という世の中になっております。
どちらかといえば、国はそのようにして環境を保護するのが当たり前、という時代です。
ここにおいて、ひとつ考えたいことがあります。
そのような、環境保護政策は、妥当なのだろうか?ということです。
たとえば、自然保護区にして、人の出入りを禁じる、
という政策が、本当に環境保護につながるのだろうか、ということです。
環境の保護、というテーマは、
要は自然を大事にし、生き物を大事にし、節度ある環境との付き合いをしよう、
ということではないかと思います。
我々も自然の中で生きているわけですから、
自然と全く関わらないでは生きていけません。
しかし、このような保護政策は、
「こっちは保護すべき環境」「こっちはどうなってもいい」的な発想に聞こえます。
そうではないはずです。
環境を保護する、自然とともに生きよう、というのは、
自然とともにでなければわれわれ人間は生きていけない、という前提条件から来るものであり、
元来、われわれ人類は、自然を大事にする、
目の前で一本の花があれば、それを訳もなく土の中から抜きあげ、
捨て去るようなことは、誰もが心に痛い思いを抱くように、
目の前でいわれもなく犬や猫が殺されれば心を痛めるように、
自然を大事にする心は本来われわれが根源的に持っている心です。
政策でその保護をするのは、
当然現在進んでいる環境破壊を食い止めるのに重要なことですが、
それ以上に重要なことは、
本来われわれが環境や自然に対して持っている、
いたわりやいつくしみの心を、
今一度喚起することではないか、と思います。
そういう背景から、
現在さまざまなプロジェクトが世界で推進されています。
その中で、ぜひ、ひとつ、取り組んでいったほうがよいのではないか、
あるいは浸透させるべきでないか、という考えがあります。
それが、松陰のさっ記に記載されている、
「聖人の心は、親族を親しみ、民には仁を施し、
禽獣草木など、あらゆるものに注ぐものである。
これは、まず近いものに対して自覚する仁心を、
次第に周辺に推し及ぼす、ということであって、
親族より民衆へ、民衆より禽獣草木へという順序はかりそめにも乱してはならない」
という考え方は、
環境保護、ということを考えた場合に、大きなテーマではなかろうか、と思います。
自分の家族を大事にしない人が、
地球に大事な環境を守ると声高に叫んで説得力があるか?
極論すれば、犬や馬や草木を愛して、賢才を無視し、
自国の民を虐待して外国人を優遇するようなもの、
とは松陰の言葉ですが、
何にいたわりを向けるべきか、
その順序、というものをしっかりと、今一度明らかにしていく運動、
というのも重要な活動ではないか、と思います。
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