学問のあり方 [講孟余話]

講孟余話 第2巻 梁恵王 下 1章

この章は、梁恵王上の第2章と同じ内容を、
改めて斉の王にも伝えています。
このことからも、孟子が、いかに、
「民衆とともに楽しむ」
という姿勢を重視していたか、がよくわかります。

改めて、人の上に立つ者は、
自ら何を楽しみとするか、を大事にするのではなく、
「部下や組織のメンバーと同じ楽しみを共有するか」
に心を砕いていきたいところです。

この章の吉田松陰のさっ記の解説では、
この内容にヒントを得て、彼は、学問の在り方、について論じています。
つまり、学問も、
「世に正しいといわれている正当な学問を一人楽しむ」ではいけない、
逆に、
「世に曲学といわれる学問でも、その志が、民衆とともに楽しむ」
というスタンスであれば、決して間違いではない、といっています。
正学を知る機会がなくとも、
世を正そう、世の中の役に立とうという志で学ぶならば、
それは一概に誤っているとはできず、
逆に、正学であっても、
それが、自己の立身出世、利益のために学ぶならば、
曲学以上にいやしい、と。

松陰は、学問の目的は、
「人の人たる道を究め、世の人々を救済しようとすること」
であると論じています。

このように見てきたときに、
現在の学校教育から社会に出るまでの教育、というのは、
残念ながら、
「われわれがどう生き、どうあるべきか」
ということではなく、
受験勉強に秀でて、良い大学に行き、良い会社といわれるところに就職する、
あるいは官僚として立身出世を図る、
「ため」に行われている、と極論されても仕方ない、状況であろうと思います。

歴史において、
学問がこのような形となって、
その学問の良しあしを人物の鑑定基準としてきて、
衰退しなかった国はありません。
一番最たるものが、
中国の科挙の制度でしょう。
科挙が中世以降、中国の官僚制度が硬直化する弊害の最大要素となったことは、
歴史上間違いのないことであると思います。

私は、
民間の企業も然りですが、
まず、国の公務員、あるいは地方の公務員の採用の基準や、
採用の在り方を見直していくことが、
この国の政治の在り方を変える、
大きな一歩ではないか、と改めて感じます。

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