民の父母 [講孟余話]

講孟余話 第1巻 梁恵王 上 4章

この章は松陰のさっ記では、
「民の父母」という概念を重要視しています。
松陰は本文の
「上に立つ者は、民をあたかも幼児を愛想すように保護教導すべきである」
をもって、「大学」の「民の父母」という概念を引き合わせています。
父母、と呼ぶには、子に対しての「養育」と「教訓」が必須であり、
どちらかだけでもいけない。
当然、民の父母たる政治家、
ならびに、今の世では経営者や指導者層は、
当然、国民、社員、部下に対して、
「民の父母」であるべきであろう、と問いかけています。
そこで、大事になるのが、
「養育」と「教訓」の概念ではないかと思います。
養育は現実的に養うことであり、
教訓は、人としての道を教えていくこと、と定義できるか、と思います。

この点は繰り返しになりますが、
現在の日本の政治において、
大いに考えるべきテーマであろうと思います。
資本主義社会においては、国民の養育、は政治家の使命で、
経済問題というのは片方の最優先事項です。
しかし、政治家のもう一つの大きな使命は、
国民の教訓、であり、これこそ、
経済が短期的成果中心の今(それはすぐにも改めるべきことですが)、
長久の企図には、
国民に教訓できるような人物であるかどうか、
というのは大変重要なテーマであると思います。

これに関して、政治家そのものの意識は低くない、と思っています。
しかし、マスコミのレベルはあまりにも低いと言わざるを得ないと思います。
そして、国民や一般大衆の意見形成が、
ほとんどマスコミによっている今、
政治家が、人として生きる道、について、
どのような考えを持ち、
それが、どのような意見形成に至っているか、
マスコミは、しっかりと理解し、
第三者的な報道を成すべきと思います。
あまりにも一方的で、幼稚な内容が多いように思います。
特に、新聞、テレビは致命的ではないか、と思います。
このような業界の人々は自分たちの意識、役割を十二分に考えてほしいと思います。


孟子の本文の説話では、
「刃物で人を切り殺すのも、悪政で人を死に追いやるのも同じ犯罪だ」
と断罪しています。
これは、確かに言葉通りで、
演説としてはとても説得力があります。
ぐうの音も出ません。
しかし、現実的には、
刃物で人を切り殺した人と、
企業経営の失敗で人を自殺に追いやってしまった人と、
政治家の失政で経済を混乱させ、結果死者を出してしまうのと、
同じではない、そう思うというより、
同じではありません。
なぜならば、
犯罪については法治国家である以上、
法によって裁かれるものです。
このようなトークは、ある種の説得のための詭弁、といえなくもありません。
この章は終始このような対比の説話に終始し、
王の政治に対する姿勢を改めようとしていますが、
トークとしては非常に魅力的ですが、
実効的な内容ではない部分も多いと思います。


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