生産力と道徳教育 [講孟余話]
講孟余話 第1巻 梁恵王 上 3章
この章では、
王が自分は十分に民のことを考えた善政をしているのに、
どうして国民が増えていかない(国力が上がらない)のだろう、と問いかけています。
それに対して、孟子は
「戦争で敵を前にすると100歩逃げる人も、50歩逃げる人も同じで、
どちらも役に立たない。」
と答えています。
つまり、いたずらに人数を増やすのでなく、
本当にこの国を愛する人たち、
この国で住みたい、この国を守りたい、
そういう人を増やすのでなければ、
人ばかり増えても何の役にも立たない、と述べています。
そして、そのためには、
・国内の生産の仕方をあらため生産力をあげて民力を高める
・教育をもって、親や目上の人への道徳を徹底させる
ことをすれば、
自然と、隣国からうらやまれる国となり、
多くの人口が流入してくるでしょう、と述べています。
そういう順序で富国強兵、は努めていくべきだ、という内容です。
明治維新前後までは、
国の力=国民の数、という概念がありましたので、
(松陰のさっ記にもそのように記載されています)
この考え方はまったくその通りで、
国内の生産力をあげる、ということについては、
経済システムや土地や風土によって違いがあることでしょう。
重要なのは、
生産力の向上と、道徳教育、とが「セット」である必要がある、ということだと思います。
これが、セットでなく、生産力の向上、技術の進化、効率の上昇、などだけが進んでは、
王道政治、とはまったくいえない、ということだと思います。
翻って今の時代を見た場合、
生産力や技術などの進化は人類史上最速の進化を遂げていますが、
では、そのような時代において、
人としてどう生きていくべきなのか、
社会においてどのような徳目を守り生きていくべきなのか、
ということについては、おざなりになっている、といわざるをえない、と思います。
このことが、現代の経済に早晩大変大きな影を落とす、
すでに落とし始めているのではないでしょうか。
なお、松陰はさっ記において、
「太平が長く続くと、戸数人口は自然に増加するものの、
生活に必要な米穀その他の物品はかえって大いに生産が減り、
国力もそれにつれて窮迫し、はなはだしい場合は、
ついに国内の人口が多すぎることを心配するあまり、
これを養うということすらできないということになる」
と記していますが、
江戸期の太平期間を通じて、
日本の生産技術、効率は欧米並みに進化を遂げています。
ですので、上記の言葉は単純には受け止められません。
しいて言えば、
太平が続くことで、人心が退廃し、趣味や趣向に走る人が多くなり、
故に質素倹約などの徳目が衰退し、
華美や余興が台頭することで、
自分の仕事に精を尽くす、ということがなくなり、
結果として個別の生産能力が落ちる、ということはいえるかもしれません。
日本でいえば、平安末期、などはまさにそういう時代であったように思います。
この章の最後にとても興味深い言葉あります。意訳しますと、
「民衆が飢饉に苦しみ、道端には餓死者が転がる、そのような時に、
”私の政治のせいではない、凶作や天候不順のせいなんだよ”
とすましているのは、
人を刺しておきながら、
”私が殺したんじゃない。この刃物のせいだよ”
といっているようなものです」
今の不景気を言い訳にIRで現状を語る経営者層につきつけたい言葉です。
この章では、
王が自分は十分に民のことを考えた善政をしているのに、
どうして国民が増えていかない(国力が上がらない)のだろう、と問いかけています。
それに対して、孟子は
「戦争で敵を前にすると100歩逃げる人も、50歩逃げる人も同じで、
どちらも役に立たない。」
と答えています。
つまり、いたずらに人数を増やすのでなく、
本当にこの国を愛する人たち、
この国で住みたい、この国を守りたい、
そういう人を増やすのでなければ、
人ばかり増えても何の役にも立たない、と述べています。
そして、そのためには、
・国内の生産の仕方をあらため生産力をあげて民力を高める
・教育をもって、親や目上の人への道徳を徹底させる
ことをすれば、
自然と、隣国からうらやまれる国となり、
多くの人口が流入してくるでしょう、と述べています。
そういう順序で富国強兵、は努めていくべきだ、という内容です。
明治維新前後までは、
国の力=国民の数、という概念がありましたので、
(松陰のさっ記にもそのように記載されています)
この考え方はまったくその通りで、
国内の生産力をあげる、ということについては、
経済システムや土地や風土によって違いがあることでしょう。
重要なのは、
生産力の向上と、道徳教育、とが「セット」である必要がある、ということだと思います。
これが、セットでなく、生産力の向上、技術の進化、効率の上昇、などだけが進んでは、
王道政治、とはまったくいえない、ということだと思います。
翻って今の時代を見た場合、
生産力や技術などの進化は人類史上最速の進化を遂げていますが、
では、そのような時代において、
人としてどう生きていくべきなのか、
社会においてどのような徳目を守り生きていくべきなのか、
ということについては、おざなりになっている、といわざるをえない、と思います。
このことが、現代の経済に早晩大変大きな影を落とす、
すでに落とし始めているのではないでしょうか。
なお、松陰はさっ記において、
「太平が長く続くと、戸数人口は自然に増加するものの、
生活に必要な米穀その他の物品はかえって大いに生産が減り、
国力もそれにつれて窮迫し、はなはだしい場合は、
ついに国内の人口が多すぎることを心配するあまり、
これを養うということすらできないということになる」
と記していますが、
江戸期の太平期間を通じて、
日本の生産技術、効率は欧米並みに進化を遂げています。
ですので、上記の言葉は単純には受け止められません。
しいて言えば、
太平が続くことで、人心が退廃し、趣味や趣向に走る人が多くなり、
故に質素倹約などの徳目が衰退し、
華美や余興が台頭することで、
自分の仕事に精を尽くす、ということがなくなり、
結果として個別の生産能力が落ちる、ということはいえるかもしれません。
日本でいえば、平安末期、などはまさにそういう時代であったように思います。
この章の最後にとても興味深い言葉あります。意訳しますと、
「民衆が飢饉に苦しみ、道端には餓死者が転がる、そのような時に、
”私の政治のせいではない、凶作や天候不順のせいなんだよ”
とすましているのは、
人を刺しておきながら、
”私が殺したんじゃない。この刃物のせいだよ”
といっているようなものです」
今の不景気を言い訳にIRで現状を語る経営者層につきつけたい言葉です。
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