言葉の修め方 [講孟余話]

講孟余話 第1巻 梁恵王 上 6章

梁の王が代わり、後を継いだ王との会話。
孟子は明らかにこの王に失望をしています。
それは、
「天下はいったいどういうことになるのだろう?」
と至極客観的で平易な質問を受けたからです。
松陰のさっ記においても、
梁の国は今まさに四方を大国に接し危急の時であるのに、
傍観者のような対話に終始する王を、
「自分の国の運命を世間話程度に考えている馬鹿者」
と断罪しています。
そして、加えて、
有志の人物の言葉というのは、自然傑出したところがあり、
自ら「ことばを修め誠を立てる」ということを、
自身の切実な問題とすべき、としています。

この後の章では、梁の国から斉の国に孟子は移っていますので、
この章は、このような王では語り合うすべもない、ということを提示したような章です。


この章は、確かに新しい王の愚昧さと、
松陰のいうように、それから類推される、
発する言葉の表わす人格、という解説で十分と思いますが、
少し現在に置き換えてみると、違った見方もできようと思います。

たとえば、現在の経済の問題を考えたとき、
「いったい日本の経済はどうなるんだろう?」
というのはだれもが考え、口にすることです。
それが、いったい何が悪い?と感じます。
我々が世間話でこのようなことを思い思い話しても、
それが、その人の人格を表すことにはならないでしょう。

ただ、もしも、私が経営コンサルタントで、
指導に行った先の社長が、
自分の会社のこともそっちのけに、
「世界経済はどうなりますかねえ。」
「日本の政治はどうなるんだろう。」
などといってきたら、
それは、「あほかこの社長」と思うでしょう、きっと。
今は、そんな世間話をする場ではないんだよ、と。
そして、おそらく、お金をもらってコンサルしても、
これでは成果が出なくて、いずれ成果が出ないことの責任を転嫁されるな、と思います。。。きっと。

孟子の王に対する立ち位置はこういう立場だったのだと思います。
そう考えると、ようやくこの章が少しすっきりします。

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