社長が現場にやってきた。。。ら? [講孟余話]

講孟余話 第2巻 梁恵王 下 4章

この章では、
改めて、「人民とともに楽しむ」ことの重要さを説いています。
再三このテーマが繰り返される、
ということは、
いかに、当時の政治が「覇道」に傾いていたのか、が想像されます。
そのために、採算「王道政治」を説かないといけない、
そういう世相だったのでしょう。

この章での挿話、はとても興味深いところがあります。
昔の王の全国の巡業の様子について話をしています。
その時の民衆の声として、
「王様がお遊びにいらっしゃらなければ、我々はどうして休息できよう。
 王様がお楽しみにおいでにならなければ、
 我々はどうしてたすけていただけよう」
と記載しています。
一方、その反対として、
王を深く恨むようになる巡業として、
川で舟遊びをしては楽しみ溺れ、
高いところに上っては山遊びにふけり、
獣を追いかければ狩りに夢中になり飽きるのを知らない、
昼夜となく酒におぼれてとめどない、
そんな巡業であれば、
王だけでなく、従者もお構いなく人民を虐げる、
そんなことが記載されています。

会社でも、
社長が現場にやってくる、
というようなとき、
こんなことがないでしょうか?
社長が現場にやってくる、のを楽しみに思える組織がどれだけあるか。
残念ながら、私のつたない経験では、
ほとんど見たことがありません。。。
社長が来る、ときけば、
不必要に緊張し、
接待用の店を用意し、
何か不具合を指摘されるのではないかと戦々恐々として、
台風が過ぎ去るのをつとに願う、
そんなことはないでしょうか?

TOPが現場にやってくる、
それを、現場が本当に心待ちにする、
そんな状態をつくるには、
現場を訪れるTOPは、品行を正し、会社の金で贅沢をするようなことをせず、
(特に地方で)
逆に現場職員とともに懇親し、
現場からの声があがれば、
それを適切に吸収し、
もちろんすぐに行動に移れなくとも、
それを「こういう声があったこと」をしっかりとしかるべき幹部、社員に公開しシェアする、
そして、そういう声を上げてくれた社員、現場には、
TOP自ら、感謝の声を伝える、
そういう取り組みが必要、ということだと思います。

さて、松陰はこの章のさっきでは、
章の内容にはほとんど触れず、
「己を修める」と「人を治める」こそ聖学の眼目であるとし、
自分自身の境遇において下記のようなメッセージを記しています。

「まず自分のこの心を正し、人の道の重いことを深く考え、
 我が国のことを思い、外国の侵攻の災いを思い、
 問題につき事件に触れて、ともにその解決について心を磨きあい、
 死に至るまで他のことを考えず、
 言葉の端といえども、このことを離れることがない、
 このようにしたならば、よし獄中にとらえられたまま死んだとしても
 天下後世、必ずわが志を継いでこれを成し遂げてくれる人が現れるであろう」

あまりにも強烈で、
そして、後世の私たちは、まさに、彼のこの言葉通りに、
彼の門下から人物が生まれていったことを思うと、
私は、学問というのは、
まさに、「自分が自分であるための意見を構成し、その意志を強烈にしていくための鍛練」
であるように感じます。

私自身についていえば、
「自己を修める」において、
ようやく「修める」題目が決まった段階で、
その中身は空っぽ、という状況です。
毎日学ばねば、そういう気持ちを強くさせる言葉です。


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