ぶれない思想 [講孟余話]

講孟余話 第2巻 梁恵王 下 5章

この章も、王の質問に対して、
孟子が王道の大切さ、
どうして王道を採ろうとしないのか、
そのことを繰り返し述べています。

王が、小さなお堂の処遇を尋ねても、
王道の必要性を説き、
王が自分がそうはいってもできない理由を、
あれを述べ、
これを述べても、
まったくぶれずに、論を逆手にとって、
王が王道を取るにふさわしいか、
強烈に繰り返し述べています。

さっ記にて、吉田松陰も述べていますが、
孟子は、国政の在り方において、
王道を取るべきである、
ということに、いささかのぶれもなく、
王がおもねってもぶれず、
王が弱音を吐いてもぶれず、
王が言い訳をしてもぶれず、
時に叱咤し、時にこんこんと諭し、時に逆説的に例を用いて話し、
王道を取るべきであること、
そのありようを説いています。

ここに、孟子の王道への信の太さ、
後世、それも何千年と生きる思想家の根幹があるように見えます。

絶対にぶれない。
覇道が絶対的主流の時代に、
王道を説き続ける、
場所が変われ、相手が変われどそれがぶれない。
それが、思想家の最大の前提条件なのでしょう。

思想の実現の手段は、
時代や環境、自らの境遇によって変われど、
その思想の根本は、絶対にぶれない。
そこまで強い信念が持てる、
確信のはるか上を行く力が持てるには、
どうすればいいのか、
今は、ただただ、目の前のことから逃げずに必死に生きること、
そして、必死に自らの思想を磨くために勉強すること、
それしか私には思い当りません。


さて、この章で、孟子は改めて王道の在り方を、
事例をもとに詳しく話しているわけですが、
その中で、最も力を入れて力説しているのが、
「この世で最も困っている身寄りのない人」への対応です。
松陰も、さっ記において、
当時(1850年ごろ)の清国の様子を赤裸々に記載し、
中国において、このような王道思想が死に絶えている、
故に列強からの侵害を受けてしまっている、
と記載しています。

顧みるに、現代の我々はどうか。

弱者を支える、救済する、ということに、
どれだけの力がそそがれているか。
社会の安定は、社会の底辺にいる人間を支えることであり、
社会の上部をにぎわす人々を支えることではない、と思います。

経済発展、と、社会生活の安定、
相容れない2者ですが、
資本主義経済の発展の行く末が、
勝者と敗者、強者と弱者の2分化であるならば、
そろそろ、資本主義社会、自由競争、個性尊重、という現代の思想の基軸に、
もう1つ、2つの基軸が加わっていくことが望ましいのではないか、
そのように感じます。

そして、そのヒントが、
東洋の王道思想にある、そのように思っています。
孟子などもまさに、そのひとつ、ではないか、と。

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